東長寺について

時代に呼応する寺院として

水の苑&本堂午後1

東長寺は四百年記念事業として、平成元年に現在の伽藍を建立しました。
新伽藍を拠点に、檀信徒や一般の方々にとって親しみやすい仏教活動の場となるよう、
時代に応じた寺院のあり方を模索し、かたちにして参りました。
これからも、「時代に呼応する」寺院であるために、日々精進して参ります。

個人へのまなざし

  • 平成8(1996)年、永代供養付き生前個人墓「縁の会」の発足
  • 家制度に縛られていた墓のしくみから個人の墓のしくみを提案

個人を超えた縁を

  • 個人が繋がることから生まれる縁を大切にする
  • 合葬墓「多宝塔」の建立

人と社会を結び、新しい文化を創造する

  • 東日本大震災を経験した私たち、そして寺院の役割を問い直す
  • 墓のしくみを利用した、信徒と社会を結ぶ新しい葬制の提案

歴史

東長寺は、文禄3(1594)年、現在の埼玉県熊谷市にある東竹院第四世、雪庭春積大和尚により開創されました。雪庭大和尚は東長寺の他、勝興寺、福寿院を開創し、徳川家康の帰依を受けていました。言い伝えによると、ある日家康が西から東へ流れる星の夢を見て、この夢の判断を雪庭大和尚に頼んだところ、「東照る西に御星現われて、家康国の宝とぞなる。」と答えられたといいます。

東長寺の開基は、土肥家二代目当主、土肥孫兵衛であると伝えられています。慶長7(1602)年、孫兵衛が内藤修理亮(清成)の組下として組屋敷地割りに携わった折、割り余り地を拝領し、約2300坪のその土地を東長寺境内地としました。 江戸時代を通じ、武士たちにとって禅僧について参禅(学問)することは、教養の基盤であり、東長寺は諸藩士の菩提寺として、また学問寺としての性格を強めていきました。また、庶民の間にも寺社詣でが浸透し、寛永年間には本堂、元禄年間には鐘楼堂、総門、中門などが建立され、東長寺も興隆しました。 しかし、明治元年火災に遭い、すべての堂宇を焼失し、一時は極度に荒廃しました。その復興後、第二次大戦の東京大空襲で再び堂宇を失ってしまいました。以後、東長第三十二世、禅嶽興準大和尚と檀信徒の努力により本堂、書院、庫裡と、順次再建されてきました。

開創から約400年、時代の変化にともなって寺の姿も変わってきました。現在の伽藍は、東長第三十三世、慈嶽和夫大和尚発願のもと、「開創400年記念事業」として平成元年に竣工したものです。禅宗の伽藍配置にならい、7つのお堂が適所に配置されています。現代建築の合理性と歴史的な寺院建築の落ち着きをあわせ持つ寺となりました。この計画にあたっては、現代の寺、都市の寺であることをふまえ、人が集い、仏教にふれる場となることを念頭におきました。そこで、街を歩く人が一時の静寂を得ることを願い、境内に水苑をつくり、こころやすらぐ空間としました。また、人々が集まる場として設けた講堂は、竣工以来、現代美術を中心とする展示で、海外の作家も含め、これまでに多数の意欲的な作家を紹介してまいりました。

現在は、永代供養付生前個人墓「縁の会」の納骨堂兼位牌堂である、「羅漢堂」に生まれ変わりました。また平成13(2001)年には、伽藍の拡張整備を行い、鐘楼、多宝塔、寺務所棟を建立し、現在の本院の姿となっております。

年表

文禄3(1594)年熊谷 東竹院四世 雪庭春積大和尚により開創
寛永年中(1624〜1644)学問寺として発展 本堂建立など寺容が整う
元禄年中(1688〜1704)諸藩の子弟が多く参禅 また庶民の間で寺社詣でが浸透し、鐘楼を建立するなど当山も興隆
明治元年(1868)火災により、全ての堂宇が焼失 また廃藩置県によって諸藩士が帰郷、多くの檀家を失い荒廃 その後、住職と檀信徒との協力により復興
昭和20(1945)年第二次大戦の東京大空襲により、再び堂宇を失う
戦後(1946〜)檀信徒の支援を得て本堂、書院、庫裡と順次再興
平成元年(1989)戦後の都市計画によって分けられていた墓地と境内地を再び統合し、旧来の寺域に新伽藍を建立
平成8(1996)年永代供養付きの生前個人墓として、「縁の会」発足
平成12(2000)年講堂を改装して、羅漢堂建立
平成13(2001)年鐘楼、多宝塔、寺務所棟を建立
平成18(2006)年坐禅堂を改装して、千手堂建立
平成19(2007)年東長第三十三世住職 慈嶽和夫大和尚遷化
同年東長第三十四世住職 秀純和鴻和尚就任
平成26(2014)年東長第三十四世住職 秀純和鴻和尚退任
同年東長第三十五世住職 慈舟遥風和尚就任
平成27(2015)年永代供養付き生前樹林葬墓として、「結の会」発足
同年檀信徒会館「文由閣」建立

伽藍・仏像・宝物

伽藍とは、寺院内に配置された堂宇の総称です。一般には七堂を具えることが寺院として完全な形であるとも言われていますので、「七堂伽藍」と呼んでいます。その配置には、宗派や時代、地形によって様々な形式がありますが、禅宗の七堂伽藍は、中国宋朝の伽藍配置法を基本にしています。七堂とは、法堂(はっとう)、仏殿、僧堂(坐禅堂)、庫院(台所)、東司(とうす、便所)、浴司、山門の七つを差します。

伽藍

本堂(二階)

本堂は、七堂伽藍でいえば、法堂と仏殿を兼ねた建物です。外観、特に屋根の形は奈良・平安時代の様式を参考にしました。内部はきわめて簡素な造りとなっています。壁面は黄竜山石を用い、天井建具は金箔を押し、天蓋は銀製としました。須弥壇、敷居、梁には、石地塗りを施しています。当山の御本尊は、釈迦牟尼仏、脇侍に文殊菩薩、普賢菩薩を配しています。

本堂

観音堂(地下一階)

観音堂には、以前の本堂の御本尊としてお祀りしていた聖観世音菩薩をお祀りしています。同時にここを室内の墓地とし、観音菩薩にご先祖をお護り頂いています。天井、須弥壇には七宝焼きによる鳳凰の図を配しました。

千手堂せんじゅどう(地下一階)

私たちの宗派、曹洞宗は禅宗とも呼ばれています。七堂伽藍の僧堂にあたる坐禅堂は、平成18年までありましたが、その年縁の会の納骨堂の拡張にあたり、坐禅堂を改修、千手堂としました。千手千眼観音像をお祀りしています。

千手堂

開山堂(地下二階)

当山を開かれた雪庭春積大和尚を中心に、高祖道元禅師、太祖瑩山禅師、当山歴代の御住職をお祀りしています。このお堂は当山檀家の納骨堂を兼ねており、歴代御住職にお護り頂いています。須弥壇の独特の色合いは、漆の中に水銀を入れて彩色したものです。

開山堂

羅漢堂(地下二階)

地下の大空間、講堂は現代美術の発表や各種の講演会、集会の場として多くの人たちが集まる場所でした。ここを羅漢堂に大改修した現在は、納骨堂という宗教空間であり、かつ講演会などを通じて智を探求する場としても位置づけています。正面の厨子には、三尊仏十六羅漢像をお祀りしています。

羅漢堂

書院

床の間、違い棚、付け書院をもつ造りは、賓客を接待するために発展してきた様式です。人の出入りの多い寺院には重要な場所です。当山の書院は、上段の間、次の間、三の間からなり、賓客や檀信徒の接客の他、一日法要における写経や薬石をいただく場所でもあります。

書院

食堂じきどう

食堂は、七堂伽藍の中では生活の場としての僧堂にあたります。修行僧は、僧堂において毎日の食事を頂きます。当山では、この食堂をロビーとして兼用し、檀信徒の法事の後席や葬儀の通夜席などにも使用します。また、お墓参りの際の休憩所、写経会の会場などにも利用しています。

食堂

鐘楼しょうろう

時刻を告げる鐘を吊るす塔です。当山の鐘には、2001年の鐘楼建立を祝い、また21世紀の世界、社会の安寧を祈願する僧、檀信徒の名が刻銘されています。歳末法要後の除夜の鐘を、檀信徒並びに一般参詣者について頂いています。

鐘楼&苔庭

多宝塔

多宝塔は、当山檀信徒の総墓、没後33回忌を過ぎた方々の合葬墓です。祖霊として昇華されたご先祖をお祀りし、ご供養しています。

多宝塔

水の苑

本堂正面の廻廊に囲まれた空間には、一面に水を張り、本堂前庭とし、「水の苑」と名付けました。水の苑は、この世を構成する要素である水、地(石)、火、風、空という五つの要素から成り立っています。仏教の教えにあるこの五大要素は、それぞれに調和し、宇宙、いのちを構成するものと考えられています。また水の中と回廊の壁面には、縁の会の方々の俗名が刻銘されています。

水の苑&本堂午後3

仏像

釈迦三尊像
釈迦三尊像
観音様
聖観世音菩薩像
千手千眼観音様
千手千眼観音像(壁画)

宝物

水の苑壁画

水の苑の回廊には、お釈迦様の誕生から涅槃までを描いた漆の壁画があります。この壁画は、中国の現代美術家、蔡國強氏が独自の解釈で、お釈迦様の生き様やその教えを表現する原画を制作、さらに輪島の漆職人たちが伝統的な技術を活かして仕上げたものです。

水の苑壁画1

十大弟子レリーフ

地下二階の羅漢堂にいたるロビーには、お釈迦様の十大弟子一人ひとりを、彫刻で表したレリーフを設置しました。ロビーに差し込む陽射しが季節や時刻で変化し、十大弟子の表情も刻々と変わっていきます。これも水の苑の壁画と同じく、蔡國強氏がデザインしました。

十大弟子壁画1

東長寺 会報誌「萬亀」バックナンバー

東長寺では檀信徒(檀家、縁の会会員、結の会会員)のみなさまに会報誌「萬亀」を配布しています。

会報誌「萬亀」バックナンバー